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生まれ:第2次ベビーブーム生まれ 僕はピアノ関連のサイトなどいくつかのサイトを持っていますが、 ここでは東大合格への道の管理人としてのプロフィールを掲載したいと思います。 上に示したように、僕は不幸にも最も競争相手の多い第2次ベビーブームの真っただ中に生まれ、 最終的には一浪の末、東京大学理科T類に合格し、進学振り分け(略して「進振り」)で東大理系学生が憧れる理学部物理学科に進学しました。 このように書くと、「どうせこの人は頭の出来が良すぎて小中学生の頃は、周りにライバルなどいないぶっちぎりの学年トップだったんだろうな」 と思われる方が大半だと思いますが、決してそうではありませんでした。 僕の経歴を知った人は「ご両親も東大を出ているんですか?兄弟はどうですか?」と聞いてくることが結構ありますが、 父親は東京の中堅私大文系の卒業で一応名の通った会社に勤務していましたが役職なしでした。 母親は中学校の頃は学年600人で上位一桁だったということですが、家庭が貧しくて高卒で大学には進学していません。 東大生の親は企業の重役、キャリア官僚、医師、弁護士、政治家などが結構な割合を占め、父親の平均年収は1000万円を超える という統計もあるようですが、僕の場合は両親から受け継いだ遺伝子や収入も極めて平凡なものでした。 そしてその必然的な流れと言ってよいと思いますが、小学生の頃の成績は「並の上」程度でした。 僕は小さい頃は何より音楽が好きでした。幼稚園生の頃にピアノの音色に惹かれて、ピアノが欲しいと親にせがみましたが、 貧乏サラリーマン家庭にとって、ピアノはたとえアップライトピアノでも高価すぎる買い物でした。 もっと手軽なエレクトーンで妥協するように両親に迫られましたが、「ピアノがいい」と泣きそうになりながら訴えて、 その粘りが功を奏して、小学校1年生からピアノを習わせてもらうことができました。 小中学校は近所の田舎の町立小学校・中学校で、のどかな日々を過ごしました。 小学生の頃の成績は並の上程度でした。音楽の成績は例外なく「5」だったのですが、 国語、算数、理科、社会の主要4科目で「5」を取れたのは、小学校6年生の2学期の算数の1回だけでした。 僕は非常に臆病で無口で内向的で引っ込み思案な性格で、答えが分かっていても絶対に挙手せず、 それが「積極性がない」という評価につながり「5」が取れなかった最大の要因だったと思うのですが、 小学校6年生の2学期の「算数」の時だけは恥を捨てて「5」を取るために攻めに出ました。 主要4科目で一度も「5」を取れずに小学校を卒業するという事態はこうしてかろうじて免れました。 と同時に算数で1回でも「5」を取れたのは僕にとって大きな勲章にもなりました。 (後に東大の中の天才集団の理学部物理学科に進学した人間として、これごときで「勲章」というのは いかにもバランスが悪いような気がしますが、当時の僕は「やった〜、やっと5が取れた」と飛び上がったものでした) この頃は勉強ができる、頭が良いと言われたことは一度もなく、 一方でピアノでは学校の歌やミュージカルの伴奏などで大活躍していて、 もっぱら「ピアノが上手い○○君」で通っていました。 中学校に入ってからも引っ込み思案で授業で挙手をして発言するのは苦手でしたが、 中間・期末テストなどの定期テストの成績で学年一桁に入るようになり、その成績が通知表の成績に忠実に反映されるようになったからか、 通知表にも主要5科目で「5」が当然のように並ぶようになりました。 中学生になってからは定期試験で学年1位に輝いたことは2回ありますが、苦手科目の国語が最大の悩みの種で、 それに加えて勘違いやイージーミスが成績上位者としてはあり得ないほど多かったことが災いし、 平均すると3〜4位でした(学年260人中)。 中学校の同じ学年にはほぼ常に学年トップを維持している女子生徒がいて、 何とか追い抜きたいと思い努力はしましたが、この人には苦手科目がなさそうで、到底かなう相手ではありませんでした。 また小6から隣町の塾に通うようになりましたが、こちらの塾にも同じクラスにどうしてもかなわない人がいて、 この人は塾内の学年トップで、僕は2位〜3位であることが多かったです。これも苦手科目の国語が災いした結果です。 ちなみに中学生時代、特に中2時代はピアノを弾きまくり、「ピアノが上手い○○君」を通り越して、 ピアノの神、エースとまで呼ばれる存在に上り詰めていました。 たまに中学生の頃の同級生の話を聞くと、僕は「成績優秀」ではなく「ピアノが上手い」ということで 強く印象に残っているようです。 当時の同級生は僕がピアニストになることは想像できても、 東大生になることなど想像もできなかったのではないでしょうか。 中3になってからは塾では塾内の少数精鋭数人を集めた「特訓教室」で特別授業を受けて、 東京の難関私立高校の受験対策もしていましたが、田舎の無名塾では指導陣に無理があり、塾内のノウハウも全くない状態で、 ほぼ自分で受験対策をせざるを得ない状況でした。 開成高校と早稲田大学高等学院を狙い、上手くいけば何とか合格できるのではないかというレベルに 引き上げることができましたが、最終的にはいずれも不合格となりました。 さらに悪いことに早稲田大学高等学院の試験で不出来で落胆したのが影響したのか、帰宅した後に熱発し、 その熱が10日間も下がらず、そのまま第一志望の千葉県北のH高校(通称「T高校」)を受験せざるを得なくなり、 その影響もあったのか、合格確実と言われながら不合格となりました。 ちなみに同じ中学校からこの高校の合格者は7人出ていますが、この人たちを含めて 同じ学年で東大を受験したのも合格したのも僕だけです。 もっと言ってしまうと同じ学年どころか、それ以前、僕の住む町から過去に東大合格者は1人も出ていないとのことでした。 それなら東大の模試でA判定を連発して合格した僕は、小中学生の頃、学年ではぶっちぎりでトップであるべきだったはずなのですが、 一体どういうわけでしょうね。これは僕自身もよく分かりません。謎すぎます。 遅咲き、大器晩成型なのか、僕の中である時期を境に突然何かが変わったのか、分かりません。 それはともかく、その当時の僕に対して「もっと頑張れよ」と腹立たしくなってしまいます。 最終的に合格した高校は2校で、ともに茨城県南の私立高校でしたが、 大学進学の実績(その年、初の東大合格者を出し、早稲田大学合格も6人)を重視し、某私立進学校に学力特待制度で進学しました。 特待の概要は1年間の授業料免除+生徒会費以外の費用全額免除というものでした。 2学年以降は、その学年で校内統一試験や模擬試験などの総合成績で校内45位以内に入っていれば授業料等の費用が全額免除となる制度でした。 この年の高校受験は大荒れに荒れて、入学600人を見込んで合格者を出したところ、全校で入学者が1020人になったとのことでした。 同じ学年には「ハカセ」と呼ばれる文系志望のツワモノがいたこともあり、 英語と国語ではどうしても彼に勝てず、最高は全校2位でした。 2学年、3学年も当然のことながら校内5位前後には入っていたため、 文句なしで授業料免除+生徒会費以外の費用も免除となりました。 高校2年生の2月に受けた東大入試オープンジュニアではB判定。次年度の特待を決めるための校長との面接の時にも、 「非常に成績が優秀で東大合格の可能性が高いので期待している」と言われました。 しかし高3の時、学校のハードな生活に肉体的にも精神的にも疲労し、担任の先生へのストレスもたまり成績が急降下し、 東大入試形式の模試でD、E判定に陥落してしまいました。 記憶力も思考力も集中力も気力も、まるで別人のように急降下してしまい、そんな自分に対する苛立ちも募り、激しい自己嫌悪に陥っていました。 今考えると、軽いうつ病になっていたのたと思います。 学校での東大受験対策は、今考えると明らかに間違っていましたが、それを認識できたのは現役生時代を終えてからでした。 センター試験本番ではそれまでの絶不調を考えると、かなりマシな結果で、東大理科T類は前期日程、後期日程ともに 足切りに遭わずにすみました。 センター試験が終わると学校も自由登校となり、嫌な学校から解放されたからか、 勉強ははかどり日に日に調子を取り戻していく実感がありましたが、40日間というタイムリミットはあまりにも短すぎました。 最終的には東大理科T類は前期も後期も不合格となり、一浪することになりました。 嫌な学校から解放され、精神が回復すると学力は信じられないほど急上昇しました。 学校に束縛されて嫌々ながら勉強させられていたことが、僕の場合、学力向上の大きな障害になっていたことが分かりました。 勉強はほどほどでその一方で趣味のピアノを弾きまくり、親からは「そんなにピアノばかり弾いていて、東大に落ちても知らないからね」 とまで言われました。僕としてはピアノに没頭していても東大に受かる自信があるからこそ、 ピアノを弾きまくっていたわけですが、確かにこの状況で親が心配するのも無理はなかったと思います。 僕は「ピアノを弾いていて東大に落ちるくらいなら、東工大に志望校を変える」と言いましたが、 それは本心ではなく、ピアノを弾く時間がどうしてもほしいという強い気持ちからでした。 ピアノも弾きたいし、東大にも受かりたい、欲張りですが、僕の中ではそれは可能だと思っていました。 この頃はショパンのピアノ協奏曲(第1番・第2番両方)ばかり弾いていました。 8月末の河合塾の東大入試オープン、代ゼミの東大模試でA判定を連発し、合格への確かな手ごたえをつかみました。 ちなみに母校では現役・浪人も含めて冊子に総合成績で名前を載せていたのは僕だけでした。 11月・12月の河合塾の東大入試オープン、代ゼミの東大模試でA判定を連発、周囲の人たちは僕がその時点で東大合格が確定したかのような話し方をしてきました。 (「大学はどこから通うか」など)。 この1年間で完全復活を遂げた僕は、早稲田大学理工学部応用物理学科、慶応大学理工学部にも次々に合格し、 東京大学理科T類にも無事合格を果たしました。 かくして僕はこの町始まって以来の東大合格者となり、地元町民は大いに沸き上がり、地元の英雄として崇め奉られました(大げさですが・・・(笑))。 親戚からも「本当に受かるとは思わなかった。合格おめでとう」と驚きの電話が鳴りっぱなしで、それはそれは騒がしかったものでした。 中学生時代(中学2年の頃)、僕のピアノ演奏に感嘆し、音楽の成績を「5の特上」にした音楽の先生も、 サンデー毎日か新聞か何かで東大合格者一覧の中で僕の名前を見つけるや、大喜びしていたそうです。 上述したように僕は模試でもA判定を連発して受かるべくして受かったようなものでしたが、 一歩引いて冷静にこの状況を眺めると、自分はとてつもない偉業を成し遂げたんだ、と感慨にふけるとともに、 いやあ、東大合格ってすごいんだなあ、と改めて感じました。 東大入学前に入学手続きに駒場キャンパスに行くと、サークル勧誘の凄まじい攻勢に遭いました。 僕は当初サークルに入るつもりはなかったのですが、 東大ピアノの会という自分にぴったりなサークルを発見して、その場でショパンのピアノ協奏曲第1番・第1楽章のほとんどを披露してしまいました。 しかし最終的にはあまり居心地がよくなかったこともあり、幽霊部員となり自然消滅してしまいました。 入学してからは勉強もそれなりに頑張りました。 東大には一応クラスがあり、クラス毎・科目毎に試験対策係(シケ対)が選ばれ、 基本的に授業に出なくても、そのシケ対の対策プリント(通称「シケプリ」:過去問と回答、授業ノートなど)に目を通せば、 よほどのことがない限り、合格点が取れます。そのことは知りつつも、 クラスの中ではかなり真面目なグループに入って授業には真面目に出席していました。 勉学のエピソードを1つだけ挙げるとすれば、1年次後期の物理学の授業で出された難しい問題で、 クラス全員がお手上げだったところ、僕は何故かその問題を一分の隙も無く完全に解いてしまいました。 クラスの皆の希望で、その完全無欠の模範解答を印刷して皆に配ったのですが、この時は鼻高々でした。 試験の成績は概ねよく、平均点でも82点を超えていたこともあり、 東大理系の一番の花形の理学部物理学科に進学することができました。 しかしさすが天才集団で、この中で最上位に入ることはさすがの僕にも難しいと感じました。 頑張れば物理学の研究の第一人者になれる可能性も結構あったと思いますが、 それには俗世間との関係を断ち、物理学に精進する決意が必要のようで、真面目だった僕もそこまでの決心はできませんでした。 ピアノも弾きたかったですし、物理以外のことを考える時間も欲しかったわけです。 そのようなわけで僕は物理の世界から抜け出し、大学院は工学部に進学しました。 それ以降は勉強で上を目指すというモチベーションを失い、何となく漫然と日々を過ごすことになってしまいました。 ピアノと筋トレと何となくの研究に取り組む漫然とした日々を過ごしました。 その後、大手電機メーカーに就職しましたが、その後は全く楽しみのない冴えない生活を送っていました。 それまでの勢いが嘘のように、気力を失い、抜け殻のような人間となってしまいました。 やはりピアニストを目指したかった、という思い、そしてピアノの道への未練が残り、 それが原因で勉学や仕事に打ち込めないで不完全燃焼を起こしていたのだと思います。 こうして会社に見切りをつけ、退職することとなりました。 上司には散々引き止められましたが、退職を願い出てから1年半後に無事退職することができました。 と言っても若くて才能あふれるピアニストが続々と誕生する中で、30歳過ぎの僕が本当に著名なピアニストになれる見込みがあるのか、 と思うと全く自信がなく、ピアノコンクールに応募する気にもならず、家のピアノに悶々と向かう日々を過ごしていました。 こうしているときに、親からも徐々にプレッシャーがかかり始めました。 自分が人に誇れる仕事って何だろう。社会的地位?収入? 結局、一度退職をした人間が同じような会社員になっても同じことの繰り返しになってしまうような気がして、 僕は全く別の道に進みたいと思うようになりました。 自分の突出した能力はピアノの演奏能力と学力で、 そのうちピアノの道で名を成すには天才であることが絶対条件です。これは不可能ではないにせよハードルが高すぎます。 一方、学力の方は天才である必要はありません。 いずれにしても、人生で何かを成すには世間に認められたやりがいのある職業でなければならないわけです。 このようにして、僕は国立大学の医学部編入から医師を目指すことに決めたわけです。 その7か月後、とある国立大学の医学部に合格しその5年後に卒業、初期研修、後期研修を終了し、現在、医師として 外来、病棟、救急外来と様々なシチュエーションで日々忙しく駆けずり回っています。
このように書いていても、何だか訳が分からない人生です。
本当はピアニストになりたかったんです。ピアニストになれれば何を失ってもよかったというくらいに・・・
だから、僕は情熱を注ぎ込む対象を探し、人生をさまよっている状態なんですね。 自分の人生を振り返るに付け、僕の青春時代に何か大切なものを置き忘れてきてしまった感じがして悲しくなります。
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